福王寺縁起
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  福王寺は江戸時代キリスト教が入って来た為に、三代将軍徳川家光によって取り潰しにあって以来古文書等は焼き払われ、仏石等は埋められて福王寺の履歴は言い伝えでしか残っていません。下に書き記したのは当時の福王寺総代長の手記を参考にして書き記したものです。
 

  創 建
  本尊薬師如来は、平安時代初期延喜元年(901)右大臣菅原道真が九州大宰府赴任の砌り、時の帝より奉戴した御仏で、道真はこれを帝と看做して崇拝し篤く信仰していたと伝えられる。延喜3年に道真は59歳で死去したが、その後道真に同行していた京都仁和寺の高僧で弥宗が、その薬師如来を本尊としてこの地に寺院を創建し、福王寺の名前は仁和寺境内の福王子を改め福王寺にした。
 本尊薬師如来 「東光山 瑠璃院 福王寺」と称した。
 その後、地方の豪族の中に神仏に祈願する風習が盛んになり、浄財不役等の奉仕が進み、次第に寺院の風格を整えた。


  平安時代・鎌倉時代
  仁和寺を領家に仰いで大いに繁栄していた。

  南北朝時代
  記録は残されていないが、鳥取県船上山に至近に位置していた当山は、後醍醐天皇の隠岐の島脱出に何れかのかかわりが有ったものと考えられる。隣村(中和村)の本興寺に名和一族終焉の地を表す碑標が建立されていることや、当山に官を辞した藤原藤房寄寓していた事等があるからである。藤房の碑は3メートルの石柱に応永年代(1394-1427)碑文を止めている。

   室町時代
  応仁の乱が起きたが、当時都の地と交流深かった当山には、公家たちが数多く流寓した。その句碑や史跡が数々ある。 

    戦国時代
  天下騒乱の渦中にあってもかろうじて法灯は守られたが、当山に古来より伝わっていた梵鐘は陣鐘に使用されて、戦場を引き回され、いたく損傷し鳥取県大山寺に長年にわたり放置されていたが、現在『流鐘』と銘名され国宝に指定されている。
 
  安土桃山時代
  この時代が当山一千年の歴史の中で、最も華やかであり充実した期間であったと推測される。
 
  江戸時代

  関白豊臣秀吉の重臣宇喜多秀家御台所「豪姫」(前田利家の四女 豊臣秀吉養女)がキリスト教を信仰したために隠れキリシタンとして、当山においてキリスト教を信仰した。その為、当山はキリスト教の寺だというレッテルを貼られ、お豪が亡くなった翌年に三代将軍徳川家光によって取り潰しにあい、百年の空白の後、明和四年(1767)再建が許され現在の本堂・庫裏を建立し、絶えて久しかった法灯に火がともされた。再建と同時に私塾を開き、都より公家の子息、千種右内可という学者を招き、将来寺院興隆の良き糧となすべく檀家師弟の教養に力を注いだ。
 その頃檀家内には、あまりに再建が手間取ったために、当山鎮守の神主たちは、都の久我大納言の助けを得て神葬を企て、折角檀家が再建に向けて燃やし続けてきた思いが不幸にもこの時に至って対立るす羽目となり、仁和寺・神祇官僚古田家、公儀江戸表を交えて卍の争いとなり、再建計画は一頓挫した。

 
  明治時代
  維新政府の国家神道政策はこれに追い討ちをかけ、廃仏毀釈の思想に発展して檀家は離散し、法灯守るのが精一杯だった。離散した檀家の中には安静三年岡山藩を追われた黒住教の教祖・黒住宗忠の心霊を三年も匿っていた、神官芦立雅楽・新宗教の開祖、明正教初代官長、湯槙信陸等の知名の宗教家の生家も含まれている。明治維新から早くも一世紀、開山一千百年を迎える当山には、あまた先霊の五輪等が蘇り、古刹再建を見守っている。
 


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